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編集長の部屋
2014年8月25日

【編集長の部屋3】ビッグコミックスペリオール菊池一編集長①「編集者として一番嬉しいのは、自分の想像力を超えた表現が、作品から出てくる瞬間」

「編集長の部屋」コーナー3人目は、ビッグコミックスペリオール(以降スペリオール)編集長、菊池一(はじめ)さんです。スペリオールさんは、トキワ荘PJとしては一番古いお付き合いの編集部さんで、聞き手の菊池も創刊から読んでいたりして、気合を入れて進めたいと思います。

 

原稿をもらう苦労もありますが、その出来の素晴らしさに、全ての苦労を忘れたことが何度もあります。  

―菊池さんご自身のことを聞かせてください。

1990年に小学館に入社しました。就職の際は学生時代に好きだった『GORO』という雑誌を希望していました。篠山記信さんの「激写シリーズ」といったセンセーショナルな写真や、小池一夫先生原作、叶精作先生作画の話題作『実験人形ダミー・オスカー』など当時人気の活字もマンガもある情報誌でしたが、入社とほぼ同時に廃刊になってしまいました。

初配属は『週刊ポスト』でした。当時は、バブルがはじけたタイミングで、多くの経済ニュースがありました。仕事は編集の立場で、経済関連の取材や記事作りなどをしました。厳密には記者ではなかったのですが、張り込みなどの仕事に駆り出されることもありました。配属初日に、日米安保の取材をせよという指示をもらい、横須賀米軍基地の周辺で取材するなどしていました。英語も判らないのに基地のそばのプールバーで出来もしないビリヤードを米兵として、仲良くなって翌日には基地の中を案内してもらいながら取材するなど、奮闘していました(笑)

2年ほどで、『ヤングサンデー』に配属されました。当初は隔週誌でしたが、途中で週刊誌になりました。異動当初はやる気がなく会社を辞めようと思ったのですが、モンゴルの国際音楽祭を取材するという出張企画に行けることになり、「面白そうだ」と会社を辞めるのを止めました(笑)。

ヤンサン編集部に配属されてすぐ、『ICHIGO』という作品を連載していた六田登さんの担当になりました。六田さんは、そこまでの自分の生涯の中で出会ったことがないような尊敬できる方で、六田さんを通じてマンガ家の凄さを知り、マンガ編集という仕事へ真剣に取組みはじめました。マンガ編集者とは、どこまでが仕事で、どこからが仕事ではないか、その区切りがなく、言わば24時間仕事というところがあります。週刊ポストみたいな仕事は、毎週〆切があって、その〆切で一度リセットされるわけですが、マンガ編集者は担当する連載作品が続く限りエンドレスで仕事が続くという感覚です。3年ほど六田さんを“エンドレスで”担当させていただき、色々大変なこともありましたが、極めて勉強になりました。

並行して、『ナニワ金融道』の青木雄二さんともお付き合いをさせていただきました。連載にまでは至らなかったのですが、読切を何度か描いていただきました。青木さんの常人離れしたマンガに対する姿勢にもしびれました。このお二方との出会いが、今も20年以上漫画編集をしているきっかけになったと思っています。ヤングサンデーが9年位、その後スピリッツに異動して10年位在席しました。そして3年前にスペリオールに異動して、今年の7月に編集長になりました。

―印象に残っている作家さんはいらっしゃいますか。

やはり、六田登先生との出会いが大きかったです。当時六田さんは、週刊で2本、隔週で1本を描かれていて、とにかく寝ませんでしたね(笑)。

―え!凄いですね。どれくらい寝ないのですか?

睡眠時間2時間くらいなのですかね。当時六田さんは、週刊のスピリッツ、サンデーと、隔週のヤングサンデーで連載されており、私は『ICHIGO』という作品を担当して、2週毎に金土と日曜の朝まで2日半張り付いていました。多分、六田さんはヤンサンの掲載のない隔週ごとに休みがあったのかどうかというところだったかと。

当時の六田さんのお宅の前にはテニスコートがあって、快晴の土曜日とかに、そこでポーン、ポーンとテニスの爽やかな音が聞こえてくるんですね。こっちは風呂にも入れずに張付いているわけですから、遊びたい盛りの20代には、なかなかつらい現場でした。原稿をいただく為に苦労したこともあったのですが、最後に原稿をもらうとその原稿の素晴らしさに、全ての苦労を忘れてしまうような、そんな凄い原稿をもらう経験を何度もしました。それくらいすさまじい方でした。

当時、物凄く忙しかった六田さんでしたが、一応 原稿に入る前に、次回の内容を簡単に説明してくれる時もありました。ですが、完成した原稿は常に我々の想像を完全に超えた感動を与えてくれるのです。『ICHIGO』という作品は、文学的な心象表現などが多く入る作品です。上手く言えないのですが、マンガ表現へのこだわりが凄かったのだと思います。当時のことで印象に残っているのが、セミの抜け殻を使っての主人公の心象表現のシーンです。ああいう表現で見開きを使うようなことは最近あまりなくなりましたが、これが見事に主人公の心象を表しており、そういったところがずば抜けていたと思います。


[ 引用:『ICHIGO 二都物語』第2巻(ゴマブックス)216-217ページ]

編集者として一番嬉しいのは、自分の想像力を超えた表現が、作品から出てくる瞬間です。

―青木先生にはどんな印象をお持ちですか?

青木先生はもう、キャラクターの表現力が凄いとしか言いようがないと思います。

マンガ家は、生き様が作品に出るところがあるかと思います。青木さんが凄いのは、非常にロマンチストな面を持ちつつ、一方でマンガ家デビュー前に会社を経営したりする中で多くの経験をされており、お金への考え方などについて、強いリアリストな側面も持っており、そのGAPがマンガに表れていると思います。強烈なロマンチズムと凄まじいまでのリアリズムを両方ともあそこまで自然な形で持っている作家は、私は他に見たことがありません。本当に人間愛に溢れているマンガの中に、リアリズムを共存させたすばらしい作品を描いていらっしゃったと思います。

一度、私が友人にお金を貸すという話を青木さんにポロっと話したところ、「金の貸し借りは絶対するな!」と、とても怒られたことがあります。そんなリアリズムを持ちながら、一方でユーモアや優しさが溢れる方で、そのアンビバレンスが表現にも表れていました。本当に優しい目線と厳しい目線が共存するマンガを描かれた方だと思います。食事のシーンを必ず入れるということも印象に残っています。

―菊池さんの考える、マンガ編集者とはどんな仕事ですか?

編集者の理想はキャッチャー(野球の捕手)だと思っています。例えば、ダルビッシュのような一流の投手が相手であっても、残念ながらそこまでの才能ではない人に対しても、「ここに投げましょう」と良い形で作品をリードすることができれば、それが編集者の仕事の理想ではないでしょうか。「今はこういう時代であり、あなたはこういう才能であり、ウチはこういう雑誌だから、今ココに読者はいるはずだ。だからココに球を投げよう」ということを説得力をもって提案できれば最高ですね。実際はそんな上手くは行きませんけど。

―それは、作家の作品にサインを出すということですか?

そういう人もいるかもしれません。私自身はそういうタイプではありませんが。ただ、大切なのは、作家の将来の事も含めて長い目で目の前の漫画家さんを見ることだと思います。若い時期だからこそ描ける作品もあるし、年齢を重ねることで描ける作品もある。目の前の漫画家さんの一生のキャリアを考えることで、その人が次に何を描くべきかが見えてくることもあると思います。一人の漫画家さんが仮に20歳で漫画家になったとして、今は28歳だから、こういう事をすべきだ、とか。30歳になったらこうなるから、今はこうすべきだ、とか。作家さんを消費するのではなく、彼のキャリアを共に考えることで、「答え」が見つかることもあると思っています。

個人的な意見ですが、私自身は、作家さんが30代をどう過ごすかということがとても大切だと思っています。20代は感性や勢いで乗り切れるところがあるかもしれません。また40代まで漫画家として生き残ることができれば、それなりの大人の作品を描けるようになっているでしょう。それに比べて、30代は20代のように感性だけでは通用はしないですし、40代ほどいぶし銀という訳にも行きません。良い40代以降の作家人生を迎えるためにも、新しいジャンルやテーマに挑戦するとか、取材をする作品を作ってみるとか、30代で何をするかがとても大切だと考えています。もちろん、具体的にどうすべきかは、個々の作家さんによって全然違うと思いますが。

―編集者にとって、一番良い仕事とは?

編集者として一番嬉しいのは、自分の想像力を超えた表現が、作品から出てくる瞬間です。私はマイケル=ジャクソンが好きなのですが、ああいう、それまでの価値観を覆すような新しい表現が生まれる現場を間近で見ることが出来た人達は最高に羨ましいと思います。天才の仕事を間近で見られるわけですから。それと同じで、漫画で凄まじい表現が生まれる現場の目撃者になれるということが、この仕事の最高の喜びだと思います。

身も蓋もない言い方ですが、天才作家と付き合う事が、最も大切であり、最も楽しいと思います。そういう作家さんには当然、色々な出版社から沢山の編集者さんが訪れ、原稿を受け取れる人と受け取れない人に分かれるわけですが、何とか原稿を受け取れる側に入れるように努力していきたいと思っています。

―お話をうかがう前に私が菊池編集長に対して持っていた印象は「待つことが出来る方」という印象でした。花沢健吾先生が初連載『ルサンチマン』で評価されるまでの間、かなり長い間待たれていたと、以前の講座で聞いています。トキワ荘プロジェクトの考え方は、まず3年間ほど濃密な時間を過ごして、自分がプロ漫画家としてやっていけるかどうか、見極めることが大事と考えているのですが。

花沢さんの場合は、新人賞をとってから出世作『ルサンチマン』を連載するまでの間が、6-7年は間が空いていました。その間、アシスタントをしながらも、1年に1作品位のペースで良い作品を作っていました。出せば必ず掲載になるという形でした。基本的には、トキワ荘PJの言う通り3年位で区切りをつけるのは良い事かと思いますし、花沢さんは少し特別かも知れません。新人、大作家に限らず、基本的には色んな意味で待つことは重要かと思います

【編集長の部屋3】ビッグコミックスペリオール菊池一編集長②「99人を捨ててでも1人を救うのがフィクションの仕事」へ続く

インタビュー・ライティング:トキワ荘プロジェクト 菊池、番野




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